KOKI SHINOHARA

24th September

三か月ぶりぐらいに岬に行ったが、たいして何も変わっていないので何を語ってもどうってことはないぐらい回数を重ねたのだろうか。いやいや回数は関係ないし年月も関係ない。何を期待して向かうのか分からないが期待したところでなんだというのだろうか。たいして変わってないの「たいして」に微々たる変化があるのだろうけどそんなことは肉眼では気づけないことが多いような気がする。今日もどこかの施設の警備員は同じ光景を長時間に渡って見ていることだろうが微々たる差を感知しているのだろうか。しかしSNSにあげるわけでも何かのコンペに出すわけでもないのにこんなに撮ってどうしようっていうのだろうか。あなたにしか撮れない写真があるとか、見たことないの無い写真を求めていますとかそういった類の文言を見掛けるたびに、誰にでも取れるような写真かつ写真というメディウムの域を出られない(そもそもどうやって出るの?筆でもとれと?)自分の撮った写真はその線引きの外にいるように感じるが、誰かの求める写真を撮ったところで何の意味があるのだろうかとか、意味とかそういうのも面倒だなと思うし、そもそも写真を具に見る人がどれぐらいいるんだろうかとも思う。

かまぼこ板サイズのスマートフォンで、広告や食べ物のファッションの写真をみるのがこの時代の常で満腹になることのない写真を大量に見るわけだけど、社会に影響を与える写真というのはどこかの有名な写真家が撮りましたというような審美的な決定的な写真ではなくどこかの写真家や写真家でないYoutuberやインフルエンサー、身近な人の撮った広告や自撮り、他愛もない報告のほうが比重が大きいように思う。推敲はしない。この文章から滲み出る自分の捻くれた面倒な性格が本当に嫌になる。いつ捻じ切れるんだ。その点写真は自分の内面とか全く映さないから有難いなとも思う。

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